「役割ある人生」  02.01.06
                   ルカ3:7〜20

 群集は、洗礼者ヨハネにひきつけられて、彼のもとに集まってきます。
ヨハネこそメシアではないかと期待しました。ヨハネには、メシアと
期待されるだけの実力があったのです。
 しかし彼は、神さまが自分に与えてくださった役割があることを、
はっきりと自覚していました。主のために民を用意するという、自分の
役割を自覚し、そして、主イエスこそメシアであると語ります。
 彼は、傲慢になるのでなく、じっくりと役割を生き抜いたのです。
ヨハネは、後にヘロデ王によって残酷な処刑をされます。
 しかし、彼には、残酷で惨めな死に飲み込まれる恐れよりも、役割を
全うした喜びや満足が満ちていたに違いありません。

 聖書は、洗礼者ヨハネは特別な人で、彼には役割が与えらていたが
あなた方には役割などない、というのではありません。人間は誰でも、
神から役割を与えられて生きるものになったのです。神が自分の
造り主であると信じることは、神が自分に役割を与え期待が込められて
いることを信じることでもあります。

 役割は、ヨハネや使徒たちのような、大きな働きのことだけでは
ありません。聖書には、名もなき人たちがたくさん登場しています。
 その人たちも役割を果たして生き抜いた人たちです。
大きな事と大きな事の間を埋めるには、たくさんの小さな事が必要です。

 ヨハネは、集まってきた群衆に言いました。「持っているものを分けて
やりなさい。規定以上のものを騙し取るな。満足しなさい。」
普通に誠実に生活をしなさいと言うのです。徴税人や兵士を辞め
なさいと言うのでもありません。それぞれの場所で、誠実に生きる
ことで、神の与えてくださった役割を果たすことができるからです。

 神さまは、ヨハネや使徒たちだけでなく、小さな私たちにも、
神さまにとってなくてはならない尊い役割を与えてくださって
います。

 もちろん、主のためにという視点が必要ではありますが、ヨハネと
同じように、役割を全うする喜びや満足に進む道が、私たちにも
備えられているのです。